【京都の弁護士グループ】安保法制に異議あり!怒れる女子たちの法律意見書(※男子も可)

怒れる京都の女性弁護士たち(男性弁護士も可)が安保法制の問題点について意見するブログです。

国家緊急権は、パラドックスでディレンマなのです。。。

 安倍首相は、憲法改正を、「緊急事態条項」(「国家緊急権」「非常措置権」)から着手してゆこうと考えているようです。

 大日本帝国憲法(明治憲法)には、天皇の戒厳大権や非常大権条項がありましたが、日本国憲法は、戦前の緊急権の濫用を反省して、「国家緊急権」条項を設けませんでした。

 安倍首相は、これを創設しようとしているのです。 

 

 実は、私は、「国家緊急権」については、司法試験受験時代にもさらっとしか勉強しませんでした(多くの受験生が同じだったと思います)。国政上この議論は殆どなかったことを受けて、司法試験に出るはずがないと言われていたからです。弁護士になってからも、幸い、「国家緊急権」を考えることなく過ごしてきました。

 そこで、受験時代に使っていた憲法の教科書を開いて、「国家緊急権」のオーソドックスな意味を確認してみました(佐藤幸治著、青林書院新社「憲法」昭和57年初版第10刷38頁~40頁)。

 

 「国家緊急権」のページを開いて、まず目に飛び込んできたのが、

「国家緊急権のパラドックスは立憲主義を守るために立憲主義を破るということ」

「その実定法化にはディレンマがつきまとう」 

 というフレーズでした。

  

 「立憲主義」は、国家権力を憲法で縛り、かつ、権力分立(権力を独裁的に集中させない)によって、国家権力の侵害から国民の人権を守る原理で、これがなければ近代憲法といえないくらい根本的な原理です。

 

 「パラドックスparadox」は、
 ・矛盾
 ・理論と現実のギャップ
 ・意図に反した結果になること
 ・正しそうに見える前提と妥当に見える推論から受け入れがたい結論が導かれること
etc.etc……よい意味はありませんね。

 

 「ディレンマ dilemma」は、
    ・葛藤
 ・板挟みで苦しむこと
 ・進退両難の地位に陥ること
 ・前に進んでも後ろに退いてもどっちに行っても困難が待ち構えていること
 ・なので身動きが取れなくて苦しいこと
 ・抜き差しならない羽目に陥って苦しいこと
 ・精神的負担に悩むこと
etc.etc……よい意味はありませんね。

 

 では、どっちに行っても立憲主義にとって苦しいというふたつの方向は何でしょう?

 ひとつは、憲法の枠を超えて独裁的な権力を行使する方向(「憲法を踏み越える国家緊急権」。これをAとします)です。大雑把に言えば、ナチスがやった手口です。

 佐藤教科書は、これは、「『必要は法を知らず』を地で行くもので、もはや法の世界に属する事柄ではない」と厳しく批判しておられます。つまり、Aは、国王や総理大臣が必要があるから言ってと法を無視してしまうので、法律は守らないといけないという最低限のライン、憲法が権力を縛るという原理を大っぴらに飛び越えてしまうので、これははっきりまずいとわかります。

 

 もうひとつの方向は、独裁的な権力行使ができる場合を、憲法で厳格に限定して書いておくという方向です(「憲法制度上の国家緊急権」。これをBとします)。

 例えば、立憲主義を停止して国王や首相が独裁的に権力を行使できるのは、

・内乱と戦争の場合だけ
・目的は立憲主義と国民の自由と権利を守るため
・行使できる権力の種類や内容も必要最小限
・行使できる期間も必要最小限 

 というように、厳格に定めておくのです。

・戦争が収まったら事後的に独裁者の権利行使が適正だったかを審査する制度 

 も書いておきます。

 

 このBだとAよりずっとましなので大丈夫、と思う人もいるかもしれません。
 憲法で厳格に決めておけば、王様や総理大臣の独裁的な権利行使は、期間限定、内容限定で、ずっとは続かないから安心だ。他方、「備えあれば憂いなし」という格言もあるのだから、作っておいた方がよいという人もいるかもしれません。

 

 ところが、国家緊急権を憲法で厳格に限定すると、独裁的に権力を行使したい人が、邪魔になる憲法の枠を無視して独裁政治をやってしまう危険が大きくなります(Aの方向)。

 このAの方向を避けたくて、憲法に書きはするが、抽象的にゆるーく書くと、憲法の縛りが名目的になって、国家緊急権を行使できる場面を限定できず、権力者の濫用の危険が高まってしまいます(緩くしといたからせめて守ってね、というレベルの縛りでは濫用を防げない!のです)。

 

 こうして見てくると、AとB の区別は、厳密に線引きできるものではないことがわかります。Bで、国家緊急権の条項を作ることの難しさもわかります。

 佐藤教科書は、このことを、「A とB の区別は相対的であることが注意されなければならない。」と注意を促しておられます(区別は絶対的じゃないということですね)。

 また、「国家緊急権のパラドックスは、立憲主義を守るために立憲主義を破るということであり、その実定法化にはディレンマがつきまとう」と格調高く書いておられます。

  そもそも、佐藤先生は、A (憲法を踏み越える国家緊急権)、「ここにこそ、国家緊急権の本質があるともいえる」と書いておられるのです。これはとても重たいフレーズです。

 そりゃそうですよね。一旦、独裁的に権力を行使できるようになって、憲法の縛が停止したら、憲法の要件を厳格に守る権力者がいるでしょうか? チェックするにも、国会の権限も国民の自由や権利も制限されているからできないですよね。

 

 佐藤教科書は、「従前、緊急事態に直面しつつも曲がりなりに立憲主義体制を維持」してこれた国には、

① あくまで国家緊急権の目的は国民の自由と人権を守るためのものだという目的が明確で、
② 非常措置の種類と程度は一時的で必要最小限でなければならないという自覚、
③ 国民の側の認識として、濫用を阻止するため事後的にでも権力者の責任を追及する途を開いておくことが不可欠だ、という認識が国民の間に相当浸透していたこと、

があった。だから、結果的に立憲主義が維持できたのだと解説しています。

 でも、佐藤先生も、これを書きながら矛盾を感じておられたでしょう。
 だって、「自覚」(権力者の自覚を言っているのでしょうね)も、「国民の認識の浸透」も、「主観」です。立憲主義は、その国が民主主義国家であろうが独裁国家であろうが、王様や総理大臣がいい人であろうが悪い人であろうが、徹底して懐疑的に、国家権力を信用せずに縛っていくことに本質があるのに、「自覚」だの「認識」だのという「主観」に頼る議論になること自体が、立憲主義からすれば矛盾(パラドックス)だからです。

 

 なので、「国家緊急権はパラドックスでディレンマ」だと覚えておいてくださいね。         

                            (弁護士 山下信子)