近未来ミニ小説「あしたの世界」 第3話 娘は看護師になってよかったのだろうか 2020年5月
私は、52歳のパート主婦。
京都市内の会社に勤務する夫と、看護師の娘(25歳)がいる。
娘は京都市内の私立大学の看護学科を卒業して、京都市内の公立病院の看護師になった。
娘は文学部志望だったが、「文学部卒の正規の就職はむずかしい。一生派遣労働者で終わるぞ。」という周囲のアドバイスを受けて、看護学科に進学した。
看護師になれば就職で苦労することはないと考えたからだ。
娘は、苦しい家計を考えて、授業料の安い京都府立医科大学の看護学科を受験したが、考えることはみな同じ。
たいへんな競争率で、娘は不合格。
それでも、後で苦労をするよりは今お金をかける価値はあると母子で相談し、娘はすべり止めで受験し合格した私立大学の看護学科に入学した。
初年度の納付金は180万円。
次年度からもたいして変わらず、合計700万円を超える学費を納付するのは本当にたいへんだった。
私は、パートを掛け持ちして働いた。
家計は極限まで節約した。
夫にも協力を頼んだけれど、「高い学費を承知で入学を決めたのはおまえたちだ。俺は関係ない。」と言って、自分の小遣いを削ってはくれなかった(夫はいつもそうやって、家計よりも自分の楽しみを優先させる)。
それはともかく、なんとか4年間授業料を払って、娘は公立病院に看護師として就職できた。
娘の就職が決まったとき、私は、「あー、これで娘を勝ち組に入れてやれた。看護師なら、途中で辞めてもいくらでも再就職の口があるし、無理に結婚しなくてもいいし、好きになった男性の収入が低くても人並みの生活はできる。娘の人生は安泰だ。」と、ほっとしたのだった。
ところが2020年の今、中東で大きな紛争が始まりそうだという。
自衛隊も米軍について出動するという。
そんなある日、娘が転職を考えていると言った。
娘:
「おかあさん。
私、今の病院をやめて小さい医院に転職しようと思うんやけど、どう思う?」
私:
「なんで?
今のままでええやん。
給料も福利厚生も充実してるし。」
娘:
「うーん、噂なんやけど‥・。
今度、中東で大きい紛争が始まるらしくて、もしかしたら、うちの病院の医者や看護師、薬剤師も、『業務従事命令』を受けるかもしれないって。
『武力攻撃事態』とか『武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態』になって、自衛隊が出動することになったら、その出動地域以外でも、知事さんが、医者、看護師、薬剤師、准看護師、臨床検査技師、診療放射線技師に、『業務従事命令』が出せる法律がもうできてるんやて。」
私:
「なんか難しい言葉で頭がくらくらするけど‥‥。
とにかくその武力攻撃事態になったとしても、自衛隊の医者や看護師が行くんやろ?
それで不足なら、日赤関係の病院から行くはずやから、公立病院まで回ってくることないんと違うの?
娘:
「私もそう思ってた。
でも、足りなかったら、次は公立病院に順番が回ってくるって。
そういうことはあっという間に決まるから、今のうちに、民間の病院に変わっておいた方がいいって先輩が言うの。
それより最初から開業医院に転職しといた方が安心やと言う先輩もいる。」
私:
「‥‥。
2015年の夏に松島奈々子が看護師役で主演していたテレビドラマ(脚注※)を見たけど、そういうことになるの?
昔、おばあちゃんから、『徴兵は赤紙』、『徴用は白紙』でされたって聞いたけど,それと同じようなことができるの?」
娘:
「『国民保護法』という法律でも、『武力攻撃災害』の場合、業務従事命令を出せるって書いてあるんやって。
しかも業務従事命令は正当な理由がないと拒否できないんやって。
『戦争反対』の思想信条は、正当な理由にならへんというのが政府見解やって。
看護師は、人の命を救う仕事やから危険な仕事をしなあかんときもある。
そやけど、自分から行くのと違って強制的に従事させられるのはイヤ。
しかも、よその国の戦争に付き合ってなんておかしい!」
私:
「看護師は危険やということやな。
あんなにがんばって高い学費を払って、人生は安泰やと思ってたのになぁ。」
【参考条文】
自衛隊法第103条2項,76条
国民保護法第85条
(弁護士山下信子)
※ TBSテレビ60周年特別企画『レッドクロス 〜女たちの赤紙〜』| TBSテレビ
第2話はこちら。