【寄稿】 殺すな そして 殺されるな~弁護士 浜垣真也
※浜垣真也弁護士からご寄稿いただきました!
2015年(平成27年)8月29日、京都円山公園音楽堂において府市民緊急大集会が開催され、入り切れない人600名も含めて5100名の人々が参加した。
感動的であった。
わが国は、健全な民主主義・国民主権が根付いていて、生きている国だということを実感した。
形式上「民主主義」や「人民共和国」(すべて和製漢字)を冠していながら、実態は国民に対する弾圧しか念頭にない国もある中で、かような集会が堂々とでき、人々が集える国は必ずしも世界の常識ではない。
1952年(昭和27年)生れの私は、昭和30年代のいわゆる安保闘争の時代を記憶の片隅に残している。
近くの工事現場から板切れを持ち帰り、釘で棒をつけてノートに色鉛筆で安保反対とカタカナで書いて貼り、チビ仲間と道を練り歩いたりしていた。
その雰囲気は今でも覚えている。
大学に入ったころ(昭和40年後半)は、自衛隊の存在そのものがあってはならない存在というのが意識の強い学生達の共通の認識だったように思う。
歳月が流れ、40年後の今日においては、個別的自衛権なるものは認められ、自衛隊は個別的自衛権の範囲の中では認められるというのが多数意見である。
憲法は、その時代の国民の利益のために存在するものであり、許される範囲では解釈も固形化しないことは一般の法律と変わるところはない面があるのであろう。
しかし、今回の集団的自衛権を認める政府の態度は、各閣僚や担当者の答弁からも練られておらず、拙速との批判を免れない。
ホルムズ海峡に限られない、核兵器の運搬もなしうる、集団的自衛権行使の場において、その国の承諾も不要である等々、弁明が変転する。
自衛権の行使は、戦争に直結する蓋然性が存在する。
このことは、集団的・個別的の言葉の差によらない。
このためにも個別的自衛権を容認する立場に立つ者も十分に行使の基準・中止の基準を明確にしなければならない。
基準の明確化の要請は、正当防衛権を認める限り、自衛隊違憲論をとる者にとってもあてはまる問題である。
あまりにも、行使の基準・それ以上の行為なるものの基準・してはならない行為の基準が曖昧である。
許すことはできない。
冒頭で述べた集会において、プラカードに「殺すな。殺されるな。」との言葉があった。
他国人を殺すべからずは、国民の意思としてみずからなしうることである。
しかしながら、殺されるべからずは、必ずしも集団的自衛権行使時という限定的な問題ではなく、むしろこの問題こそが国民1人1人の重大問題であろう。
最大の配慮を図るべきは、他国の侵略を中心とする有事において「殺されるな。」の大命題をいかに国家として国民として実践しうるかである。
攻めてくる国があれば、殺されたら良いではないかとの意見は、あくまでもそう思っている人の個人の問題である。
他の国民に押し付けないでほしい。
私は私の家族が侵略者に射殺される場面で平静ではいられない。
降伏すればよいではないか、との意見もあろう。
歴史を知らぬ哲学的見解である。奴隷の身の安息をむさぼって幸福が来るはずがない。
一度滅んだ国は、復興することは基本的にありえない。
そのような戦争に巻き込まれないために、やはり今回の集団的自衛権容認に反対せざるをえないのである。
私はこのような立場から、反対する。
(弁護士 浜垣真也)